かねてから、書いているように、うちの次男君、ジュリは
自閉症(アスペルガー)の診断を受けている。
この事は、今更、こうして書いていると、彼を少し、知っている人たちは
「なんで?そんな事、そんな感じ、しないけどなぁ?そうなの?」もしくは
「全然、そんなことないじゃん!」というような、印象を持っている人もいるかも。
(でも実は、「そんなの、
お母さんの気のせいだよ」とか言われると、逆にモノスゴイ困るんだけどね^^;。一番困るのは、「自閉症」というものを
「(ドラマなんかを参考に)知ったかぶり」されることで、「指導される」ような事まであるw)
でもおそらく、浅いお付き合いの頃はそうでも、しばらく一緒に過ごしていると(学校などで)、
「なるほどな、こういうことか」と実感してもらえるようになる事が多い。
しかも、
やはりいくつかのトラブルを経て「これが、アスペルガーということか!」とも、思ってもらえるんだろう。
馴染んでいくと、それこそ、むしろ「気にならなくなる」程度なんだろうけど、「馴染んでいくのは(不器用な)本人ではなく周り」の方なのだ、と思う。
親の私自身も、彼をもちろん、お腹から出てきたときから知っていてw。診断されたのは小3の頃だったけど、もちろん幼児の頃も私にとっては「兄ちゃんはこうだったのに、
この子はなんで??」という気分はあった。
しかし、テストを受けて診断されてようやくと「そうか、こういうことだったんだ」と合点がいった。
こういった発達障害の難しいところは、
程度も違うし、得意とするところ苦手とするところが、人それぞれ違うので、一見「同じ問題から発している困難」だと分かりにくいところにある。
たとえば、大きく分けて「理系」か「文系」か。「視覚優位」か「聴覚優位」か。
反対方向に出れば、まったく逆になる。(また、これを判別することを難しくしていることの一つに、「発達障害と診断される範疇に無い人にも、
これらの差異は存在する」ということ。
どこからどこまでを線引きすればいいのか?という部分が、物理的、物質的に見れないせいで、より、理解しにくい)
けれど、それらはつまり
「満遍なく、脳の能力を使えていない」から、そういった優劣が付いてくるわけだ。そして、「劣」側はもちろん、生活を難しくさせるんだけど、つまり・・・・・・なんでも「飛びぬけて出来ることがある」という事が、いい方向に作用するのはいいけれど、その「劣」の方からとにかく
逃げてしまう、という事が余計、その格差を広げてしまう。「得意なことを伸ばせばいいんだよ」とは、言うけれど、
出来ないことから逃げてしまうことを、大人が認めると、一生、それを認めてくれる人の中でしか生きることが出来なくなってしまう。それも、難しいところだ。
うちの、ジュリは「理数系」が大好きで、それとキレイに反比例して「文系科目」が苦手。
しかし、なんとか、偏差値で言う45くらい。通知表は「3」の範疇。
それより、破壊的なのは実技教科で、美術は2学期は「1」だった。というのも、絵や作品を何一つ提出しなかったから。
「何を描いたらいいのか分からないもん」という。そしてつくづく「そうか、作品を出したことが無いから、それは1つくんだな」
で、なぜやらなかったのか、問いただすと
「僕は、作文でも、日記でも、絵でも、
そういう表現するのが苦手なんだ」と。
(ちなみに、
ドラマなどでやたらと記憶力がよかったり、素晴らしい絵を描いたり、聞いた音楽をすぐ再現できたり、などが紹介されているが、それも
「極端に優位に出た側」でのこと。
これが、
みんなが同じ方向に出るのではないので、ウチは特に
「絵が描けない、劣」の方に出ている。ちなみに、年号を覚えたり、歴史に詳しいなんてのも、
まーったく無い。
そして、
そうじゃないから、「自閉特性」でないのでは?という事が、分かり難くなるまた、一因である)
うん、なるほどね。
一連の、脳の使い方というか、「心の動き」なのかもね。と。そしてその、自分の心の動きを表現するという事が難しいという意味は、一番には
「自分は、ダメだ」「できない」「こうしたら、笑われるかも」「怒られるかも」という事が先に立ち・・・・・・・「踏み出せない」ということが、まずあるような気がする。
こうして、育ててきて思うんだけど、
けっして、「絵が全く描けない」わけでもないし、たとえば、本を読めないわけでも無いし、読んだ本の感想を持っていないわけじゃない。家族でしょっちゅう、マンガに対する感想やら、映画も、また、もちろん音楽にだって、
感想を言い合っている。ちゃんと、的を射たことを、彼は言っている。それどころか、音楽に関しては、さらりと、音楽が分かっていない人間には絶対に言えないような・・・。
「うわ、千秋みたいだ・・・・・・」とつい、思い出してしまうような、
的確なことを言う事がある。
なのに、宿題で感想文が出たとき、
さっぱり書かない。
そういう時、私はいつものように「話し合う」。
「ここは、どう思った?主人公はなぜ、ここで、こうしたんだろうね?ここはびっくりしたよね」
すると、「そうそう、これはなぁ」とワクワク
語りだす。私はそれをメモして、並べ替えて、
「これ、そのまま、書けばいいんだよ」と・・・・・・。これが、彼の夏休みの読書感想文などの、文章だった。
しかし、ここで、つまり彼が、
一体なにが出来なくて、自力で文章が書き出せないのかが、分かる。
つまり、「書かなきゃ!と思うあまりに、焦ってしまい、ひとつひとつ
順序だてて考えられない『だけ』」
実は、発達障害で、学習障害を持つ子供は、「バカだから」出来ないのではなくて、
もっと違う部分で、「壁」を作ってしまっているから、その先へ行けなくなっているというのに、その
本当に崩さなきゃいけない「壁」に気付かず、押し付けようとするので、どんどん
「出来ない体験」が積み重なっていき、その上
逃げ出すことも、許されてしまう、良くない連鎖になっていく。
発達障害児に対する、取り組みが、文部科学省で変わっていった背景には、おそらく私のようにこういう子供を見てきて、同じように思った人たちが、「上」で動いてくださったためだと思うし、また、それは、そういう子供と関わっている人たちと同じ意見だから、そう思うのだ。
「彼らの障害は、周りの対応次第で、いくらでもよい方向に向かわせることができるもの」
「知的に『劣る』どころか、大きな利益をもたらす、能力を持った者である可能性がある」
それを、生かすも殺すも、実は親や先生次第だということ。私は・・・・・・我が子を見てて、たまに思う。
「この子、やっぱり、めちゃスゲェ・・・・・・」こんなことが出来るのに、分かってるのになんで、なんで
「バカ扱いされる」んだろう?
まるで、「出来ない子」と見なされるんだろう?と。
「サヴァン症候群」ということもあるけれど・・・・・・。私は自閉特性で
「この子どうなるんだろう」とか
「障害児だ」とか思っている、親御さんに伝えたい、話し合いたい。
諦めたらいけないのは、きっと周りの大人の方だよ、と。
そう思ったエピソードがあった。
ところで、題名の
「ATフィールド障害」。
ATフィールドとは
境界面において発生する空間の相転位により周辺とは異なる性質を形成する領域。通常の推進物、波動を一切受け付けない。
「新世紀エヴァンゲリオン」作中で第十七使徒渚カヲルはこれを「心の壁」と称している。といろんなサイトで説明があるが、もっと分かりやすく言えば、
「自分と他者を隔てる境界線」みたいなものかと。そしてそれは、
物理的でも、精神的にも、である。
「自閉症」とか書くと字の意味で「自分に閉じこもっている引きこもりか?」と思われそうだが、「ATフィールド障害」って方が、それこそ的を射ているんじゃないかと。ピッタリなのにね~。
また、エヴァから、ってのがいいじゃんw。
あれ、こういうこと、過去記事でも書いたことがありそうかな(といいつつ、チェックするのがメンドイ)。
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