阿倍野区民センターで、人権週間記念行事である、中学生人権作文コンクールの表彰式と一緒に、兄ちゃんの高校の演奏会があるとのことで、ジュリも一緒に行った。
「ダンス・セレブレーション」の後、今年の吹連のコンクール曲「ローマの祭り」。これ、実は舞台を聞くのが、これが始めてだったりする。おおおお~という演奏。
バンダ付(舞台以外に両袖に金管を配置)だとこうなるのかー。しかも、普段聴いてたのはオケヴァージョン、吹奏だとこうなるのかぁーという感じ。
その後、全員で・・・サンタの衣装でのサンタメドレー。
これ・・・全員が舞台でそろうと、ずっごいかわいいw。なんだか、高校生たちというより・・・ピクミンか何かがワラワラとwという感じ。
とても華やかで楽しい舞台。舞台下で、「箱串刺しマジック」もあった。これ、帰ってきてキリンに仕掛けを聞いたらまた、びっくりwww。
あえて、「種」「仕掛け」は書かないけれど(「マジック」のネタばらしはダメ?w)といいつつ、まぁ、聞いて「まぁ、それしかないだろww」と笑ったわけだけど。
そして、「GReeeN/キセキ」「アンジェラアキ/手紙」
「手紙」は、数名のバンドと、合唱だった。合唱は・・・もう一歩、歌側の音量があるほうがいいんじゃないだろうか?歌詞が聞き取りにくい。
さすがに音程はいい人ばかりだが・・・。エンターテーメントとしては、数名でも「アンジェラアキのように」歌える人が、マイクを持ってとかの方がいいのかも。
この合唱交えた吹奏の舞台ってどこのでも思うんだよねぇ。なんか「ダサイ」。
つか、元曲を聴いたときの感じは出せない。
たとえば・・・海外の吹奏団体が突如、・・・ビートルズを「合唱」しだしたら、どうか?(例に挙げる曲が思いつかないよ)
どちらかといえば、合唱するならベートーベンの「第9」あたりを、の方がいいんじゃないだろうか?
などと思ったり。ゴスペルでもいいかも。
でもまー海外じゃ、音楽はキリスト教と結びついていて、そしてクリスマス。信仰ももたない日本人がクリスマスだからゴスペル合唱、てのも、本来変な事なのかも知れないけど。
ま、しかも、今回は「人権集会」だしねぇ・・・。ま、追求し始めると、何も出来なくなりそう?
そして最後に「翼をください」で終了。これは手話をしながらの演奏。
「手話が必要な人に・・・楽器演奏の舞台」がどうなのか?などと言うことも、また難しい問題なのだが、まぁ、その会場にどのような人が来ていたのかは不明だけど・・・。
聞こえない人の中にも、先天的に難聴の人もいれば、中途難聴(もともとは聞こえていたが、病気で聞こえなくなった)の人なんかもいるとすれば、この演奏と手話、も意味があるのかも。
まぁ、それに、健常者にとっても、手話で表現することを「特別なことではない」という感覚を持ってもらうための啓発と言う意味はあるのかも。
私個人的には、英語を、フランス語を話せるようになりたいのと同じように、手話も覚えたい、という気持ちはあるなぁ。ただ、使うことが日常にないので・・・取り組んではいないけど。
この会の中で・・・顧問のU先生からも聞かれた「人と人との違いを認め合える社会」と言う言葉があったけど・・・。
受賞した中学生高校生の作文の中にも、「いじめ」が主なテーマで、「人権」について書かれていたけれど・・・。
どうしても、私の頭からは・・・吹奏楽の演奏会でもあったこともあり、「ジュリのこと」が離れなかった。
「人と人との違いを『認め合える』」って・・・・・・・・どういう事なのか。
認め合えれば・・・いじめはなくなるのか?
認める、と言うことは、「その『違い』をいじめる対象にしない」から、なくなるのか。
なんかね、中高生、学生の受賞作文の中にも「それは、違うんじゃ?」と思えることがいくつかあったし、つまり、それを評価した「大人」こそが、「いじめ」という現象をそう、捉えているんだな、と思う。
その「違うんじゃないだろうか」の、最たる部分をひとつ、書いておく。
「いじめとは、中学生高校生、子供の世界だけのことじゃない」。
大人の世界の「いじめ」の方が余程深刻なことは、どう思っているんだろう?実際自殺者、年間3万人と言う中に、大人・・・20歳以上と、未成年の、どちらの比率が高い?
自分の中の「劣っている人間と自分が設定した人間に対して、『個性と認める』ことが出来ない大人」が、子供にそれをやれ、と言ったところで、何の説得力もあるわけがない。
実際、本当に理解し合わなければならないのは、子供を育てる「親」であり、「学校の先生」だ。もちろん、そのことに気が付き、取り組んでいる先生方も増えていることで、いい方向に向かいつつある。
でも・・・全部がそうなのでもない。
大人が、「人をいじめる心理」を「理解」し、「本当に認め合える世界」が実現できないから、「いじめはなくならない」とまず、諦めている。そして、無理やり「建前」的に、子供に「いじめはいけない」と説く。
でも、先生自身が理解していないので、「いじめている側」を「逆いじめ」する先生、なんて事態まで生まれる。
そこで・・・「いじめる側」になった「先生、もしくは大人」は言うだろう。
「いじめは、『いじめられる側』にも原因がある」
ここだ。これ・・・どうしても、この事の矛盾を言いたくなる。
私には「いじめられる側に原因があると言うのはおかしい」と言う考えには、首肯できない。
うちの子が、どうしても「いじめられる側」であるからこそ。
なんらかの原因、発端はある。
みんな、迷惑だなと感じることや、この人いやだな、と感じることはある。直して欲しい、と思うことも。
ただ、その方法として「いじめる」ことがおかしいのであって、改善や努力を求めたい、ことは当たり前の流れだ。
だから、「いじめられた側に何の問題も、責任もない」と頭ごなしに決め付けることは、根本的解決には繋がらない。
「相手の個性を認める」のは、片側だけじゃなく、双方向でないといけない。ハンデを持っている側も、なぜ、自分がそのような立場になったのかを、「人のせい」だけにするのではなく、自分自身も出来る限りの努力をしている、と分かってもらえさえすれば、そのハンデは逆に、素晴らしい人間関係を築いていけるきっかけになるかもしれない。
もちろん「ハンディキャップ」にもいろいろある。身体が不自由なこともあれば、うちの子みたいに発達、言動、行動に問題がある場合もある。だから、一概に「障害」とはくくれない。
しかも・・・いじめの中には「差別」という問題ももちろん含まれていて、そこには「人種、国」によるもの、「性差」によるもの、様々ある。
けれど、みんな人間として、生きていく上で「自尊心」、自分は、大切な唯一の人間であり、誰にも蔑ろにされるものではない、という気持ちを持って、生きがいを持って生きている。
それは確かだ。
自分に自尊心があるのと同じように、他人にもそれぞれ自尊心があると、大人自身が認め合えてこそ、社会のいじめも、学校でのいじめも減らしていけるんじゃないの?と思う。
はん、でも、書きながらも・・・まるで、見えない人の汚さに向かって、綺麗事で塗りなさいよ!と言っているようで半分虚しいw。と自分の汚さを塗り固めつつ・・・。
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